【アート展「北風にのって」、そしてKUMAGAYA PLACE MARKET“ART and BOOK”、好きなものに囲まれた最高の1週間!】
運命、という言葉を、僕はとってもポジティブに使ったわけですが、一方で、この言葉を心の底から憎まざるを得ない状況に立たされている人たちもいます。このコロナ禍で大切な人を亡くされたり、会社が倒産してしまったり、生活が立ち行かなくなってしまったり、言葉にできないような状況に追い込まれてしまった人たちが沢山沢山います。
コロナ禍がなくてもそもそも苦しかったマイノリティーの人たちも社会の陰に大勢います。
あるいはロシアの侵略を受けてウクライナから避難してきている人たちや、現地で暮らす沢山の人たち。ウクライナだけではありません、シリア内戦による難民や、ミャンマーで迫害を受ける少数民族ロヒンギャの人たち、アフガニスタンのタリバン政権下で迫害される女性や子どもたち、世界中の紛争や内戦によって、自分の運命を呪っている人たちも沢山いることも今の世界の現実です。
さらに掘り下げると、上述したような世界の捉え方自体が、非常に欧米的で西側的な価値観に基づく認識であって、それぞれの国や地域で起こっているさまざまな対立は、単純に善と悪に2分できるようなものは存在し得ません。対立に至るまでには様々な出来事が複雑に絡み合っていて、どちらの側にも引くに引けない状況が作られてしまっている場合がほとんどです。
でもここまで掘り下げると、逆に、なんだかこれって、パパとママのケンカにも当てはまりますね。
相変わらず話があっちこっち行きまくってますが、
何が言いたいかというと、
つまり、客観的な認識とか、冷静な状況判断とかって、もちろんとっても大切です。特に今の超情報化社会では、それを常に求められているように感じます。
しかしながら、それを常に求められる生活は僕たちにとってとても困難です。困難だからやらなくていい、とは思いません。今の社会で生きるためには最低限、正確な情報、客観的な知識などを兼ね備える必要はあります。でもそれらの客観性や正確性自体が単に情報でしかないならそれは常に揺れ動いているし、それらは決して正義ではありません。
だから僕たちは今の世界で、正しく、客観的でいる、というのはかなり難しいというのを再認識して、言い換えれば、完全な正義や正確さは程よく諦めて、もう一度、主観的で、個人的な感性にもちゃんと向き合っていくべきなんじゃないか。
自分が、これは運命だ、と感じたものに素直に飛び込む勇気を思いだすべきなんじゃなかいか。(子どもの頃は全瞬間をそうしていたはずです、子どもたちを見ていて思う。)
そしてそれこそが、このコロナ禍で最も失われたものだったのではないか。
それによってもちろん失敗するリスクは無限に生まれるわけだけれども、そのリスクを致命的なものにしないで、再チャレンジ可能な範囲にとどめられるような柔軟性のある社会を作るために僕たちはもっと努力していかなきゃいけない。政治や民主主義はそのために努力すべしと思います。
そんなことを、この企画が終わった今も考えていますし、これからもこういう答えのないことを、色々な人たちと、様々な場所で考え続けていきたいと思っています。